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ペケとカエルの古事記解説書?

(10)黄泉の国脱出

Posted by peke & kael on 2021-04-04

(10)黄泉の国脱出

 

於是 伊邪那岐命見畏 而逃還之時 其妹伊邪那美命 言令見辱吾

ここに伊邪那岐命見して恐れて逃げ帰りたまいし時、その妹伊邪那美命言いしく「吾に辱しけるを見しむ」

見てはいけないと言われていた伊邪那美命の姿を見てしまった伊邪那岐命が恐ろしくなって逃げ帰ろうとした時、伊邪那美命が「わたしに恥ずかしい思いをさせたわね」と言い

卽遣豫母都志許賣【此六字以音】令追

すなわち 黄泉醜女をつかわし追わしむ。【豫(よ)母(も)都(つ)志(し)許(こ)賣(め)】

ひらがなで(すなわち)と書くと➡乃、これもすなわちで意味が「そこで」とか「やっと」と混同しがちですが、この場合は字面どおり➡即、「すぐに」とか「とりもなおさず」の意味です。

すぐに黄泉醜女に追わせました。

先ほどの雷同様新しいキャラの登場です、よもつしこめ黄泉(つ)醜女、(つ)は助詞で(の)の意味で「黄泉の国の鬼女」が出てきました。すごい名前です、醜女 字面ではみにくいおんなとなっていますが別の見方では醜女➡非常に霊力の強い女の意味もあるそうです。ですからここでは彼女の名誉のためその容姿ではなく霊力の方で読んでいきたいと思います。

(ただ分類上では醜女は鬼女に入りますので恐ろしい顔をしているのかもしれません。)

現に彼女のスペックは一飛びで千里を行く足を持っているとされています。ただし頭はあまり良くなくて原文で【令追】追わしむ➡追えと命じられているのにちょくちょく逆らいます。

爾伊邪那岐命 取黑御𦆅 投棄 乃生蒲子 是摭食之間逃行

ここに伊邪那岐命くろみかづらを投げ棄て、すなわち(上記)えびかづら生いこれを拾いはみし間に逃げ行く

逃げる伊邪那岐、追う 醜女すごい展開になってきました^^;なんせ相手は一飛びで千里を行く足の持ち主ですので捕まるのは時間の問題です、この醜女先ほど書きましたように頭があまり良くなくて食欲旺盛です。

伊邪那岐命がくろみかづら(蔦で編んだ冠)を投げるとそこにえびかづら(山ぶどう)が生えて、それを拾い食べている間に逃げました。どうも食べ物を見ると命令を忘れるようです。

猶追 亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛 引闕 而投棄 乃生笋 是拔食之間 逃行

なお追い また右の(みずら)の(ゆつつまぐし)を引き抜き投げ捨てるとすなわち筍が生えこれを抜きはみし間に逃げ行く

ブドウを食い尽くして、ふと命令を思い出したのかまた追いかけ始めました、伊邪那岐命は今度は右のみずら(前出)に刺していたゆつつまぐし(前出)を投げると、そこに筍が生えましたそれを抜いて食べている間に逃げていきました。(アカン奴や)

一度ならずも二度までも食い気に命令を忘れた黄泉醜女に愛想をつかした伊邪那美命は増援を送ります。 伊邪那岐命、絶体絶命の危機です。

且後者 於其八雷神 副千五百之黃泉軍 令追 爾拔所御佩之十拳劒而 於後手布伎都都【此四字以音】逃來 (読みを省きます)

さらにその後ろに、八人の雷神に千五百人の黄泉軍(よもついくさ)をそえて追わせました。

(伊邪那岐命は)腰に帯びていた十拳剣を抜いて後ろ手にふきつつ(振り回して)逃げていきます。

ここで定義されていないものの登場です。黄泉軍とありますので黄泉の国の軍隊であることは明白です、副(そえて)ですので「八雷神が千五百人の兵隊を引き連れて追った」という意味です。原文ではこの兵隊に言及していませんのでわかりませんが、神様ではなさそうです。では人なのか、もし人ならばこのすぐ後に出てくる二人の会話の中で「青人草」「人草」ということばで人を表していますので人ではなさそうです。

神様でもなければ人でもない、では何か?。こんなこと気にしなければいいのですが一度引っかかると気になってしまう悪い性格ですのでお付き合い願います。

黄泉国=地獄という観念ではないのでしょうが、穢れた忌み嫌うところであると考えられます。

そんな国の兵隊とは何か?

安万侶君もちゃんと書いておいてくれればいいのですが急いでいたのかチョイチョイわからないことが出てきます。

ですが安万侶君が書かなかったということは、わざわざ書かなくても分かること、と考えるとどうでしょうか、この兵隊がなにものなのかのヒントになると思います。

時代はずっと下りますが平安時代になると「百鬼夜行」と言って夜な夜な鬼や妖怪が列をなして街を歩き回る言い伝えがあります。この鬼や妖怪とは人知を超えた物事でたとえば「地震」「台風」「竜巻」など人に害をおよぼすものすべてがそれらのしわざと考えました魑魅魍魎(ちみもうりょう)とされています。

簡単にいうと魑魅魍魎=妖怪・怪物など様々な妖=百鬼と考えていいと思います。

この時代(飛鳥から奈良時代)にもそうゆう考えがあったとすれば黄泉の国の住人=魑魅魍魎の図式が出来ると思います。

ここまで書いて気がついてしまいました、こんな面倒臭い説明をこねくり回さなくても今の人にはたった一言「ゾンビ」で理解できるってことを・・・

便利な言葉がありました神でも人でもない「ゾンビ」だと言えば伝わるのでしょう

長々と説明書かなくても良かったんだと気がついたけど癪に触るから書き直さないでそのままにします(バカの知恵は後で出るって本当ですね)

黄泉醜女+八人の雷神+千五百人のゾンビに追われた絶体絶命の伊邪那岐命が後ろ手に十拳剣を振り回しながら逃げていきます。

猶追 到黃泉比良【此二字以音】坂之坂本時 取在其坂本桃子三箇待擊者悉逃迯也

なお追いて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂のもとに着いた時その坂のもとにあった桃三個を採りて待ち撃てば悉く逃げに迯げき。

ずっと追われて黄泉比良坂の坂のもとに着いたときにそこにあった桃の木から実を三個採って投げつけたら追って来たものみんな逃げていきました。(最後は ことごとくにげににげき と読みます)。

黄泉比良坂というものが出てきました。黄泉の国への入り口の坂だと言えます。この坂の本が境界になります。

爾伊邪那岐命告其桃子 汝如助吾 於葦原中國所有宇都志伎【此四字以音】青人草之落苦瀬 而患惚時可助 告賜名 號意富加牟豆美命【自意至美以音】

(読みを省略します)

ここに伊邪那岐命その桃の木に言いました、おまえが私を助けたように芦原中津国(あしはらなかつくに)に移り住み、国の民(青人草➡人)が苦境に陥ったり患い惚けるときに助けてやりなさいと言い、意富加牟豆美命(オオカムヅミノミコト)と名付けられました。

エ~ト桃が神様になってしまいました。桃には神様が宿り人を守る言い伝えがこの頃からあったことがわかります。ですからのちに始まる子供の安全と健やかな成長を祈る桃の節句や鬼退治の桃太郎の起源がここにあると思います。

無事黄泉の国からの脱出が成功しました、しかし・・・

最後其妹伊邪那美命身自追來焉爾千引石引塞其黃泉比良坂

最後に伊邪那美命自身が追って来ました、□□千引石(ちびきいわ)を引いて来て黄泉比良坂を塞ぎました。(物語の流れを切らないように□についての説明は後にします。)

其石置中各對立而度事戸之時

その石を挟んでおのおの向かい立ち(伊邪那岐命が)事戸(ことど 永遠の別れ)を言い渡した時

伊邪那美命言愛我那勢命爲如此者汝國之人草一日絞殺千頭

爾伊邪那岐命詔愛我那邇妹命汝爲然者吾一日立千五百産屋

是以一日必千人死一日必千五百人生也

伊邪那美命言いしたまいし「愛しい我兄よこのような事をするならばあなたの国の人を一日に千人絞め殺すしかありません」。

すると伊邪那岐命は言われました。「愛しい我妹よ、そのような事をするならば私は一日に千五百の産屋を建てましょう」

このような事から一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれることとなりました。

これで伊邪那岐命は無事黄泉の国から生還しました。

ここで少しわかりにくいところを解説します。

この話の舞台である黄泉の国とはどこにあるのか、それにつながる黄泉比良坂とは?というのはちょっと長くなりますので説明をコラムに書いておきますのでそちらをご覧ください。

ではまず青人草と人草について説明します。

以前古事記には人は登場しませんと書きました、出てくるのはどんなに人間臭くてもそれは神様だ、とも書きました。事実古事記には人が能動的には出て来ません、この物語の中で人が何かをするまたは何かを言うということはありません。誰かが人を作ったあるいは生んだということもありません。

では人はいつからどのように存在していたのかという疑問がわいて来ます。残念ながら古事記には一切の記述がありません。想像するに人を「青人草」「人草」と表現していますので、地面が固まり草木が生えたように人もその時自然発生したと考えられます。

では「青人草」と「人草」の違いは何かというと、使われている場面を見ると想像できます。

「青人草」は伊邪那岐命が桃の実に「葦原中津国に移り青人草の・・・」と表現しています、つまり葦原中津国に住む住人➡︎国民を指し健やかに過ごしている様をいい。

「人草」は伊邪那美命が「あなたの国の人草を毎日千人殺します」と表現しています、つまり憎しみの対象として人草と言っています。青い草➡︎元気に生きている人、青くない草➡︎殺す対象の人でポジティブかネガティブの違いです。

この時代でも国民は「民」とよばれていて「草」とは呼ばれていませんが驚くことに千年以上も後に古事記が脚光をあびるとすべてではありませんが、国民が民ではなく「民草」と呼ばれました。それもついこのあいだまで(第二次世界大戦終結まで)です。

つぎに文章中に□で表現したところです。この□に入る文字は焉と爾です、まずはこの字、焉(えん)と読みますが(いずくんぞ)とも読めます、さらに面倒臭いのは「読まない」という選択もあるのです。

つぎの□は爾(じ)と読みます、意味は一義が「なんじ」(汝)二義がそれ。その。これ。この。

三義が他の字の下に付いて状態を表す助字。

最初は焉と爾の間に仮の句読点を入れて「焉」を読まない字、つまり置字として見ていましたがいろいろな解説の中には焉の前に句読点を入れて(いずくんぞ)と読んでいるものがありましたので、悩んでしまいました。もし焉んぞ(いずくんぞ)と読むならばその後の文章が疑問または否定でなければなりません。でも斜めから見ても下から見てもどう見ても疑問または否定の意味が見つけられませんでした。

小学館の大辞泉の中の難読漢字に焉爾(のみ)を見つけましたが 爾だけでも(のみ)と読むのでこれも違うようだと二日ほど悩んだ結果面倒臭いので無い知恵を絞り、焉は置字とし爾も助字として読まないか「ここに」と読むという力技で乗り切ろうと考えました。古文の素養がないことにホント情けない思いをしました。

つぎに「事度を渡す」ですが本文中にはサラット「永遠の別れを言い渡す」と書いていますが実は「事度」これだけでは意味がわかりません。日本書紀の中の古事記と同じ場面によると「事度」ではなく、「遂建絶妻之誓」(ついにぜつさいのちかいをたてる)とありますので絶縁を言い渡したものだとわかります。

「事度」が絶縁を意味する言葉として使われたことがわかりましたが、なぜなんの注釈もなくこの言葉が入っているのかについて考えると、注釈がないということは、この時代「ことど」と言えば理解できた言葉であると考えられます。ですから現代の漢字で追ってみたいと思います。

「ことど」を「こと」と「ど(と)」に分けると。こと➡異・ど(と)➡戸とすることができます。これが正しいかどうか知る由もありませんが「ことなる と」(戸は戸口であると同時に家の意味もあります)となって「家を異にする」と解釈できます、夫婦がひとつ家に一緒に住むことをやめると言うことは離縁と理解できます。ですからこの時代では「ことどを(言い)わたす」といえば離縁することだったのかも知れません。信じるか信じないかはあなた次第です^^;

最後に伊邪那美命が「あなたの国の人草を一日に千人殺します」と言った後、伊邪那岐命が「それならば私は一日に千五百の産屋を建てましょう」と大工さんのような返事をしています。

この産屋とは子供を産むための建屋をさします。なぜそんなめんどくさいことをするのかというと神道では三不浄といって人や動物の死・またその出産・女性の生理は不浄なものとされて人の出産や生理のときはその産屋で過ごすことになっていたそうです。

ただし中巻に出てくるくだりで美夜受比売(ミヤズビメ)と倭建命(ヤマトタケルノミコト)との会話で姫の着物の裾に血が付いているのを見て倭建命が「今夜がんばろうと思っていたけどダメみたいね」と言うと姫は「月事(生理)は女として当然のことだから気にしません」といって御合(まぐわい)したまい・・・とありますので、生理そのものを不浄とする観念はこの時代明確ではなかったと思われます。さらに出産についても本来の産屋は「汝見たまいそ」・・・「見ないでね」という見るなの禁忌であって不浄の考えはあまりなかったようです。(現代密教第8号 血に対するケガレ意識 福崎孝雄氏)

長い説明になりましたが「産屋を建てる」の意味は「人が生まれる」の間接的表現であるといえます。

それにしても一日に千人死んで千五百人生まれる・・・差し引き五百人の増加・・・単純にこのまま増え続けると一年で182.5万人増えて百年で1億8千2百50万人の増加となります。

仮に古事記撰上の時を起点として現在までで23億人を超えてしまいます、かるく中国を追い越していますが日本の国は足の踏み場もない悲惨なことになってしまいます。

計算機片手に余計なことを考えてしまいましたが、この自由過ぎる考察ができる隙がある古事記がやっぱり魅力的です。