稗田阿礼って誰?
古事記の中で稗田阿礼は記憶力抜群で聡明な人となっています。 その紹介のしかたがまた鮮烈で下記のように紹介されています。
重複になりますがご容赦を。
原文
時有舍人 姓稗田 名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心
ときに舎人 姓を稗田 名を阿礼 歳は28歳でした、その人は聡明で(文字を)目にすれば口に誦え(となえ)耳に聞けば心に勒(きざむ)
現代文にすると「たまたまそこにいた舎人、姓は稗田名は阿礼歳は28歳でした。その人は聡明で文章を見れば声に出して読み解きその声は聞く者の耳に心地よくひびき心にきざまれました。」
下線部は二通りの解釈があって。主語を阿礼とすれば「(阿礼が)人の話を聞けばそれを心に勒」
すなわち聞いたことは忘れないとも解釈できます。
私とすれば天武天皇がおそらく残したかったであろう倭言葉の鷹揚を文字ではなく現代でいうボイスレコーダー機能のように正確に記憶させたかったであろうと思い阿礼自身が心に勒んだと解釈したいです。
そう解釈しないとこの後で安万侶が書き起こすのに苦労したとわざわざ書き残すことは無かったと思います。
この文章にも突っ込みどころがあって「時有舍人」この表現が気に入りません。なぜならこの阿礼の紹介の前に天武天皇の重大な思いを書いています。
於是天皇詔之 朕聞 諸家之所賷帝紀及本辭 既違正實 多加虛僞 當今之時不改其失 未經幾年其旨欲滅
もう漢字だらけでうんざりしますが我慢してください。
「ここに天皇は詔げられました。朕(私)の聞くところによれば諸家に伝わっている帝紀と本辞は既に真実と違ってきていて、多くは虚偽が加えられている。もし今この時失われてしまうのを改めなければいく年も経たないうちに本当の旨が失われてしまうだろうと。」
ここにも突っ込みたい所がありますがそれは後に回しておきます。
大化の改新以降中央集権を目指し律令制を確立しようと努力してきているのに、その根本である天皇家の出自があやふやにされてしまっては元も子もありません。ですから
大化元年(645年)に焼失した天皇記その後失われた国記を補完するために行う一大事業をたまたまそこにいた舎人に思い付きで命じるなんてことがあるわけがありません。
天武天皇自信が阿礼の才能を知っていたとしても「たまたま」と言う表現は変です。
それと稗田阿礼が内舎人であったとしてもその身分を考えると
斯乃 邦家之經緯 王化之鴻基焉 故惟 撰錄帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
これすなわち諸家の経緯であり王化の鴻基をなし、帝紀を撰録し本辞を討覈をして
偽りを削り真実を定め後世に伝えたいと思う。という詔をするとはないとは言えないものの非常に考えにくいと言わざるを得ません。
ここにも私なりに突っ込みたいところがあるのですがその前に前の突っ込みを拾っていきたいと思います。
それは何かというと前の原文で「朕聞」(私の聞くところによれば)の部分です。
ほかの勅書や勅語をたくさん読んでいるわけではないのですが、たとえば近代の明治23年に発布された教育に関する勅語(教育勅語)の冒頭には「朕惟フニ」朕(私が)惟フニ(思うに)と書きだされ。そのまえの憲法起草を命じるの勅語の冒頭は「朕、ここに我が建国の・・」で始まっています。
いずれも「朕」天皇自身が主語となった文章になっています、ところが序文によれば「朕聞」となっており主体は天皇自身ですが第三者の介在によりアクションを起こしたことになり、アクショントリガーは第三者であることがはっきりと書いてあります。
ですから聞かなければいずれどこかで誰かがするにしても古事記の編纂は「今」ではなかったということになります。
分かりやすく言うならば。
「天皇さん、公家さんや豪族さんの持っている帝紀 や本辞がやたら改竄されてメッチャクチャになってきてますよ、今のうちに直した方がいいと思いますよ」ってチクった人がいることです。
もちろんこんな平易な言い方では無いにしろ天皇に忠告した人がいたということです。
ではだれがチクったかのか、天武天皇のアクショントリガーになれる人を探してみようと思いますが、当然私の知識では闇の中でわかりません、でもがんばれば推察することぐらいはできるかもしれません。そこでがんばって調べてみましたら一部の解説に多品治(おおのほんじ)ではないかと書かれていました、でも私は違うんじゃないかと思います(ア~喧嘩売っちゃった)この多品治と言う人は太安万侶のお父さんではないかと言われている人で天武天皇の壬申の乱の功績者で、没年(推定)696年8月25日に持統天皇から直広壱が贈位された記録があります。この直広壱は諸臣四十八階の上から十番目の冠位ですので貴族の中では中の上くらいの冠位だと思われます。
比較的高い位ですが日常的に天皇とさしで話ができるかというと疑問です、多品治という人は壬申の乱での功績(軍功)や諸国の境界を定めるために全国を巡ったという、いわゆる現業の人と言うイメージがありますので「チョット聞いてよ~」てな話を天皇とさしでできるとは考えにくいのです。
では誰かという犯人捜しにもどります、でも私のつたない知識では調べるにも限界がありますので近親者の内で可能性のある人を考えてみたいと思います。
ただそうなりますと天武天皇の年齢を特定しなくてはなりません、しかしよりどころにしている日本書紀にも本序文にも記述がありません。生年のわからないことは別に珍しいことではありませんがわかっていた方が何かと推定しやすいですので調べてみました。
ところが調べてみるとマァ出てくるは出てくるはこの人生年月日がいくつあるんだというほど出てきました。数えてみると五つありました、でもって諸事に照らし合わせて一番妥当なところで考えてみたいと思います。妥当なところとは「興福寺略年代記」にあります640年生まれとすると色々つじつまが合わせやすいのです。
しかし当時子供を持つ年齢がだいたい20歳から22歳と考えられていますが、天武天皇の生年のわかっている皇子の中で一番はやく生まれたとされたのが高市皇子の654年生まれで天武天皇14歳の時となってしまいます。チットばかり早いかなとおもいます。
それと日本書紀によると中大兄皇子が乙巳の変のときに19歳とされているのに対し興福寺略年代記では14歳となります、これも若干若いですし中臣鎌足当時31歳が軽皇子当時49歳でのちの孝徳天皇に接近し変を起こそうと考えたようですが何らかの問題があって中大兄皇子に切り替えたということです。しかし日本書紀によると二人の出会いが偶然を排除できない記述であるためこれほどの大事を皇子で利発だったしても弱冠14歳の今でいう中学生の年齢を命がけの事件に巻き込むだろうかと考えます。仮に自分より年上の軽皇子では主導権が取りにくいし動きにくいとか軽皇子自身があまり乗り気ではなかったかと考えられますがそれにしてもあまりにも若いと思います。一旦中大兄皇子から離れて大海人皇子に戻りますと。
先程子供の件で早いと書きましたが、じゃあ20歳ならいいのかと考えますとこれもまた問題が出てきてしまいます。
それは乙巳の変の記述に天武天皇の記述が一切ありません、これはほかの生年説ですと20~30代となってしまって、いかに中大兄皇子と中臣鎌足の画策としてものちの天智天皇の弟の記述がまったくないのも不自然におもえます。
そのてん「興福寺略年代記」に照らしますと天武天皇が五歳の時となって記述がないことの整合性がとれます。
書いててだんだんめんどくさくなってきましたのでそろそろやっつけ仕事に移りたいと思います。ここからの話は何の根拠もありませんし私の独断と偏見で書いていることをご了承ください、興福寺略年代記にある天武天皇の年齢に3歳たして天武天皇誕生を637年としてなんとなく辻褄を合わせてみたいと思います。
なぜ天智天皇の誕生を変えないのかについては聞かないでください、なんせ日本書紀の記述でなんの不整合を起こしませんので敢えて変えないだけです・・・。
では637年生まれで考えてみますと以下のようになります。
生 年 没 年 年 齢 乙巳の変 壬申の乱 古事記詔
天智天皇 626年 672年 46歳 19歳
天武天皇 637年 686年 49歳 8歳 35歳 40歳
中臣鎌足 614年 669年 55歳 31歳
大友皇子 648年 672年 24歳 7歳 24歳
軽 皇子 596年 654年 58歳 49歳
川島皇子 657年 691年 34歳 15歳 20歳
高市皇子 654年 696年 42歳 18歳 23歳
草壁皇子 662年 689年 27歳 10歳 15歳
大津皇子 663年 686年 23歳 9歳 14歳
忍壁皇子 不明 705年
舎人皇子 676年 735年 59歳 1歳
多品治 不明 696年
太安万侶 不明 723年
藤原不比等 659年 720年 61歳 13歳 18歳(注)年齢は満年齢 乙巳の変645年壬申の乱672年古事記の詔677年(推定)
大きく稗田阿礼が誰かという本題からそれてしまいましたが、この誰が天武天皇に行動を起こさせたかがわかると誰が詔を受けそれを実行したのかが見えてくるような気がしますのであえて長い冗長ともいえるこの文章を書かせていただきました。
なにが見えるのかといいますと古事記も日本書紀も天武天皇の詔から始まっているのですから記録に残っている日本書紀を見ていけばおのずと古事記もわかるのではないかというかすかな期待を込めて調べていきたいと思います。
この日本書紀の天武七年三月十七日の記述によりますと
この日天武天皇は川島皇子・忍壁皇子を筆頭に十二名に詔をして「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたと記述されています。天武七年というと西暦で681年で、この時をもって作業が開始され、続日本紀養老四年(西暦720年)五月に記述されている「一品舎人親王が出来上がった日本紀三十巻と系図一巻を撰上した」をもって実に39年にわたる一大プロジェクトが完了したことになります。
日本書紀には序や奥付などはなく本文内に開始の詔が書かれていて、終了に(撰上)に至っては本文内に書かれてはいません。マァ奥付がないのですから書かれていないことは間違いではないのですけど。
この開始の詔を受けた皇子の年齢をみますと川島皇子24歳で忍壁皇子は推定ですが15~20歳ぐらいじゃないかと考えられます。
それを踏まえて古事記の詔の推定年代677年のそれぞれの皇子の年齢を見てみますと高市皇子がぴったりと一致します。それに近いのが川島皇子ですが川島皇子はのちに日本書紀の編纂を命じられていますので除外できると思います。
では高市皇子かといえば、もし高市皇子ならばかなりの高い確率で序にその旨がはっきりと書かれているはずで、あえて聡明だの記憶力がいいだのと飾りをつけて皇族ではない舎人の稗田阿礼と書く必要がないと思われます。逆に考えるなら皇族以外に命じる必要があったため秀でた能力の持ち主という理由をつけたのだと考えられます。
もし高市皇子が介在するならば、壬申の乱での総大将を務め絶大な信用を得ていることを考えれば「父ちゃん最近みんなの持ってる帝紀も本辞もいい加減になってきていて今のうちにに直しておいた方がいいんとちゃう?」って耳打ちした方じゃないかと思います。
チクった犯人を見つけました(笑)
この信用ある高市皇子の話を聞いたからこそ詔の冒頭の言葉が「朕聞く」であると考えると私的にはしっくりときます。前述にもありますように「誰かが天皇に言った」それによって天皇がそれを正そうとするアクションを起こした。そのトリガー(引き金)が高市皇子の言葉であり高市皇子そのものだったと思えるのです。
もし皇族以外の人物が天皇に話をする機会があってそのことを知ったとしても天皇が次にするべきことはその事実を調べることであり、調べたのちにそのことが本当であれば「朕聞く」ではなく「朕」と言われたことだと思います。
では日本書紀では二人の皇子を筆頭に作成の詔をだしているのになぜ古事記では舎人なのかという疑問が出てきます、それは皇族であって頭が良くて書に優れているだけではこの役は務まらないということにほかなりません。
冒頭に書きましたように現代でいうボイスレコーダーのような人物が必要だったのです。
もし漢風に文字を書き読み方も漢風で良ければ、私の説によるならば(偉そうに言ってます)「父ちゃんみんなの帝紀がいい加減になってなってまっせ」と言われたなら「そんならおまえすまないけどちょっと直してキチンとしたもん作ってよ」でもいいことになってしまいます。
原文にも「撰錄帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉」とあります。
「帝紀を撰録し本辞を討覈して偽りを削り実を定め後世に伝える」の意味です。
これの「撰録」というところを現代風にいうと「文章を述作して記録すること」(デジタル大辞泉)
ということです。述作とは第一義では書き表すことで、第二義には先人の言説を伝え述べることと、自分で新しく説をなすこととあります。
もう一つの「討覈」は残念ながら現代では二文字並べて熟語として使用されていないようで一文字ずつ考えると「討」は問いただす・くわしくしらべる・探し求めるで「覈」は調べる・明らかにするの意味になります。
ですから個々の部分だけを抜き出して考えてみると、あちこちに伝えられている帝紀や本辞を集めて伝わっている内容を徹底的に調べなおして正しいものに作り直す、ということになります。
だったら調べて書き直せばいいじゃんってことになりますよね。(また話が元に戻ってしまいました)でもここでちょっとひねって考えると、この古事記は太安万侶が自分で考えて新しく作った物語ではありませんよね、連綿と伝えられてきたことの間違っているところやいつわりをそぎ落としきちんと間違いのないものにしなさいという詔ですので全く新しい作り物ではないことは間違いありません。
この連綿と伝えられてきたものはすべて文字で書かれたものではないはずです。なぜなら文字という記録媒体がまだ一部の人たちのツールで識字率がまだまだ低い時代では当然口伝という記録しかないはずでさらに歌謡をも含めて書き綴るとなるとボイスレコーダー並みの記録が必要になります。その言葉の鷹揚までもが記録されなければなりません、それができたのが「稗田阿礼」ということになります、だからこそ太安万侶が書くのにメッチャ苦労しましたと書き残すぐらい面倒な作業となったのです。
さてこれで皇族の皇子ではなく、ずば抜けた能力の持ち主である舎人に白羽の矢が立ったことの説明が出来たと思います。
ここまでをまとめてみますと
1)高市皇子が天武天皇に諸家の帝紀や旧辞(本辞)に偽りが混じっていることを伝える。
2)天武天皇はその偽りや誤りをのぞいた正しい帝紀と本辞を作ろうとおもう。
3)そこで聡明な舎人「稗田阿礼」に資料の収集や記録編集を命じた。
となります。ですが「ちょっと待ったァ~」と言いたくなるのは私の悪い癖です。
前にも何度か書いていますように天皇の相手は舎人です、その舎人一人に諸家の経緯や王化の鴻基(王の徳によって世の中を良くしていく基礎)をたださせる詔を出すだろうかという疑問がわいてきます。しかも原文の字面だけを読むと「稗田阿礼に撰録せよ」と読み取れます。
ということは舎人の稗田阿礼に天下国家の基礎になる国史を書けということになります。
百歩ゆずってそうであったとして稗田阿礼は何をしたかというとこの少なくとも撰録という部分は何もしていません。じつに古事記編纂の詔(677年推定)から元明天皇へ撰上(712年)の34年間なにかを撰録したという記録はありません。ひたすら討覈に努めたかと思われます、もちろん34年間それだけをしたわけではないのでしょうけどそれを裏付けるものが711年9月18日元明天皇が太安万侶に稗田阿礼が持っている資料をもとに帝紀と本辞を編纂しなさいという詔を出しているということです。
もし天武天皇の詔を先ほど書いた意味で解釈するならば元明天皇は稗田阿礼に撰録したものを撰上してねと言うだけで済むはずです。
ただ編纂の詔から撰上までの期間が4ヶ月とあまりにも短く、さらに太安万侶自身が書いているように帝紀の部分はあまり間違いがなかったと言うことですので相当の部分がすでに出来上がっていて太安万侶はそれを写し書くだけではなかったかと思われます。そうするとこの古事記のおよそ半分はあまり悩まずに出来たことになりますので編集期間の短さも納得できます。
やっとこの文章の本題である稗田阿礼は誰かという核心に入っていきます。
すいません前振りが長すぎました・・・。
何も無理やり稗田阿礼を否定するわけではありません、現に天宇受賈女命(アメノウズメノミコト)の子孫と考えられ猿女君(さるめのきみ、祭祀に携わった一族)を輩出する氏族の一部が現在の奈良県大和郡山市稗田町に住み稗田と名乗ったと言われていますのでその中に「阿礼」という人がいても不思議はありません、ただし太安万侶が序文に書いた稗田阿礼と同一人物であるということにはなりません。それに猿女君の君を姓(かばね)とみるか女性への尊称とみるかでまったく違ったものになり、尊称とすれば歴史に残るのは女性となり稗田阿礼女性論が出てくるのです。小難しいことを書いていますが私自身、原文にはっきりと男性の職業である舎人とありますので女性ではないと思っています。(また脱線してしまった)
話をもどしますと序文にあるような人物がいたと考えるのが普通ですがその本当の名前が稗田阿礼かと言われれば違うと思います。もしそうだとしたのなら謎が大きすぎます、原文のまますなおに解釈すると「たまたまそこに居た舎人に一国の国史にも匹敵するような書物を作れ」と詔を出すこと自体あり得ることなのか謎です。
天武天皇の生年を考えるときに使いました年表をもう一度見ていただきたいのですが、上から3行目に中臣鎌足とあり一番下に藤原不比等と書いてあります。
中臣鎌足は前述のとおり乙巳の変の首謀者で中大兄皇子(後の天智天皇)にとっては大変な功労者であり大化の改新をとおして中央集権国家・律令国家の礎を築き藤原氏繁栄の大元となった人です。(亡くなる直前に天智天皇から藤原の姓を授けられたので生前は中臣で死後は藤原で呼ばれています)。
一番下の藤原不比等(ふじわらのふひと)は藤原鎌足の二男とされている人ですのでこの二人は父子となります。この不比等という人由緒正しき家系で親の七光りで、さぞや華々しい人生を歩んだのではないかと思われがちですが若い時にはけっこう苦労しています。
というのも壬申の乱のときに鎌足の同族の中臣氏は大友皇子側についたため処罰され政治の中枢から排除されてしまいました。しかし本人はまだ13歳で直接関与していないため大友皇子側に対する処罰の対象にも大海人皇子側の功績の対象にも入りませんでしたが中臣氏(藤原氏)ということでしばらく田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家にかくまわれていました。その関係で不比等と名乗ったようです。
この田辺氏は中臣氏と同じく?百済系渡来氏族です、その来歴より史(ふみひと又はふひと)とは姓で職務として文筆や記録など文字を扱う書記官の業務にあたった人をさします。
その関係で藤原不比等はこのかくまわれている間に文筆にかぎらず法律知識も田辺氏から授けられたと考えられます。
このままでは市井に埋もれて終わりですが、672年の大舎人の登用制度により下級官人となったとされます。この大舎人は左右の大舎人寮あわせて1600人もいる大所帯でその中からの出世は激烈な競争があったと思われます。
彼はこの競走を勝ち抜き太政大臣まで出世しました、めでたしめでたしで終わる話だといいのですが残念ですがそうはいきません。単純に考えて下級官吏から最上級の太政大臣になることなど可能でしょうか?現代に合わせて考えてみるとノンキャリアの役人が事務次官にまで出世するようなものです実際には事務次官経由で総理大臣にまでなったようなもんです。
ノンキャリアであっても総理大臣になることは十分可能ですが、ノンキャリアが事務次官を経由して総理大臣になることは無理であると思います。
彼はそんな出世をやってのけました、彼が歴史の表舞台に現れるのは持統天皇3年(689年)に判事(従五位下)に任命されてからです。しかし何もない無位の男が突然判事になる訳もなく順々に昇進していったと考えるのが普通です。しかも672年13歳でいきなり大舎人になったかもわかりません、当時貴族の嫡男が(親が三位以上)21歳で内舎人に任官することを思えば、いかにツカイッパシリだとしても少し歳が足りないかと思います。では何歳でなったのかは記録にありませんのでわかりません。もしかしたら13歳でなったかも知れませんし18歳なのかも知れません、そうなると怖いもの知らずでど素人の私にとっては好都合なこととなります。 得意技のやっつけ仕事で「エイヤッ!」て勝手に歳を決めてしまえるからです。
しかし厄介なことがあります、それは当時なにを基準に昇進したのかがわからないのです。
たんに年功序列だったのかコネや上司の引きも左右したのかすべて能力主義だったのかそれともそれらすべてが加味されたのか私にはよくわかりません。
ですからこの位でどのくらい在位すれば昇進したのかがわからないため出世が早いとか遅いとか判断できません。
ですがもし彼が672年13歳で無位の大舎人となったと仮定して17年後の判事(従五位下)まで行きつくには小初位下~小初位上・・・・正6位上~従五位下と17段の位の階段を上がらなければなりません。現代で考えてみると22歳で入社して17年後の39歳で会社役員になるほどの出世です。それも私が勤めていた極小零細企業ではなく一部上場の大企業の話とすればそれがいかに大変なことだとお分かりいただけるのではないのでしょうか。
しかも正六位上と従五位下では天と地ほどの開きがあります、従五位下の位階から貴族となり昇殿(殿上の間にあがること)が許される可能性のある身分であり、もし昇殿が許される昇殿宣旨(しょうでんのせんじ)を受けることが出来たなら殿上人(てんじょうびと)となり身分上昇殿を許されない六位以下の地下人(じげにん)と明確に区別され私の推定でしかありませんがこの壁を抜けるには相当の努力が必要だと思います。
このような出世を単純に一年で一階級ずつ上がっていくものなのか考えなくてもあり得ないと思います。
ではなぜ689年に歴史の表舞台にいきなり貴族として登場できたのかを考えてみたいと思います。この年になにがあったのか調べてみると天武天皇の皇子のひとりであり681年に立太子され皇太子となった草壁皇子が亡くなっています。いきなり出てきた草壁皇子と藤原不比等と何の関係があるのかと思われるでしょうが、どうやら彼は草壁皇子に仕えていたようなんです。突然出てきた新事実。どこでどうなって草壁皇子に仕えたかは皆目わかりませんが突然主を失った彼を草壁皇子の母親である持統天皇が法律に詳しく筆もたち文才に秀でたこともあり従五位下に取り立てたものと思われます。
そうなるとますますどうして皇太子に仕えられたのかを考えなければなりません。皇太子と言えば次に天皇になる人ですよ~って宣言した人ですから国のナンバー2です、そんな人にいかに藤原といえども一度は政治の中枢から排除された中臣の家系の彼がふつうに仕えることなどありえないのではないのでしょうか。
この不自然な出世やいつのまにか皇太子に仕えていたとなるとか、だれが考えても「なんか裏があるよなぁ~」って思いますよね、この有るかもしれない裏をすこ〜し考えてみたいと思います。
672年壬申の乱で勝利した天武天皇が673年3月20日に即位し自身の新しい政権の運営を開始します、その際政権の要職に自身の皇子を中心に配置して専制的な支配体制を作りました。その是非については私の知識不足や今回のテーマとはあまり関係ありませんので割愛しますがこのような政権運営をしたとだけご理解ください。
この政治体制を皇親政治(こうしんせいじ)といいこのあと即位する持統天皇も概ねこの体制を継承しました。
要は要職を天皇の近親者で固めてしまえば自分の地位をおびやかす要因を最小限に抑えることが出来さらに不穏な動きをいち早く察知できることができます、それに言葉は悪いですけど思いのままの政治ができます(よく言えば自分の理想とする政治が可能)。
このことを踏まえて斜め45度から考えると、天武天皇のまわりには身内で固められている、さらに15度ほど首をひねると身内以外高位に出世することが難しいとなります。
ではなぜ藤原不比等は貴族になれたのか?おかしいんと違いますか?てなことになります。
じつは現代では歴史学者の支持が少ないそうですが、ちょっと前の平安時代まではかなり信じられていたことがありまして。「ちょっと奥さん聞きました?」「あの藤原さんのとこの不比等ちゃんて実のお父さんが天智天皇さんだって」という会話が巷でささやかれていたそうです
(信じるか信じないかはあなた次第です)。
いままで私もしれっと中臣鎌足の二男と書いてきましたが天智天皇落胤説があって鎌足の二番目の子供であることには違いはありませんが実の親子関係ではない可能性があります。
これは今ではあくまでも伝説という域を出ないということですが、『公卿補任』(くぎょうぶにん)『帝王編年記』(ていおうへんねんき)『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)に書いてあるそうです、659年に生まれた不比等のことを800年ころの平安時代の人が考えたことと、2021年の今の考えとどちらが正しいのかと聞かれると答えようがありませんが、もしもご落胤だったらと考えると私がくどくどと出世競争がどうだとか、裏があるよね~とか言っていたことが一瞬にして説明できてしまうのです。
この話を「うんうんあるかもね」と聞いてくださる方もおありでしょうし「そんなバカなことがあるわけないだろう」と言われる方もおみえになると思います。
私ごとき、ど素人が偉そうに何を言おうと研究者の偉い先生方に鼻で笑われることなど百も承知でと言うより鼻も引っ掛けられないことは承知で書いておりますが逆に言えば、こんな素人でも入り込んで「あぁでもないこぅでもない」と引っ掻き(書き)回せることがこの古事記の魅力だと思います。そんな言い訳を胸にさらに続けていきたいと思います。
さてひっぱるだけひっぱってきましたが、ここまで来れば私が何を言いたいのかお察しいただけると思います。
ズバリ稗田阿礼は藤原不比等だ・・・。言い切りました。不比等以外に考えられない(ちょっと自身がないですけど)(笑)。
稗田阿礼=藤原不比等とするといろいろ解釈が楽になるのです、この解釈云々についてはおいおいと書いていきますがこの時点ではもう少しその根拠についてお話ししていきたいと思います。
この章の冒頭にも書きましたが「たまたまそこにいた舎人」これを考えると、草壁皇子に仕えている不比等がもし従兄弟どうしだとすれば皇子が「父ちゃん不比等ってすごい能力があるよ」って引き合わせることだってあり得ることです、もちろん正式に天皇に直接会うことはできないでしょうから皇子が引き連れて何か私的な折に偶然を装って紹介する機会があったと考えるとこの原文がしっくりきます。また天武天皇が普段から「こんな能力のある奴が居たらいいのになぁ」って言っていたとしたら「父ちゃんうってつけの奴がいるよ」って紹介したかもしれません。
なんか会話が庶民的すぎてイマイチ威厳に欠けますが、むつかしい宮中のしきたりとか話し言葉を全く知りませんのでご容赦ください。
ではなぜ稗田阿礼(仮名)としたのでしょうか、それは藤原不比等であろうとなかろうと実在する人物では都合が悪かったんだと考えます。聡明で文字にあかるく筆が立ち記憶力抜群の人物に頼らなければ天武天皇の考える史書は作ることが出来なかったのです。いささかもその真贋に疑いの余地を残してはならなかったのです。(天武天皇の考えた史書については、別に書いていきたいと思います。)
私たちはこの古事記を1300年前の遥か昔の物語として考えていますが、古事記が書かれた当時の人がそれを読んだらどう思うかと考えてみたらたらどうでしょう。
はるか昔に神様があらわれて天と地をつくり島をつくり神様を生み、それが連綿とつながり今にいたると書いてはありますが、そこにいた人も見ていた人もいるわけがありません、言ってしまえば口伝・伝承をまとめた言わばファンタジーです。
しかし、これが真実だ、だから天皇は神の末裔でそれを侵すことも否定することも許されない唯一無二の存在だということを納得させなければならなかったのです
いかに伝承・口伝を忠実に再現したとしても原文にある通り「帝紀を撰録し本辞を討覈」しなおさなければならないほど多くの家にある帝紀や本辞に誤りや偽りが混じっているとすれば「ほんまかいな、うちにある伝承とチョット違ってるがな」ということもあったはずです。
そこにその物語のおおもとの資料を作った人物が実在したならちょっと生臭い感じがしませんか?いかにひとにぎりの雲の上の偉い人たちの作ったもので、これが真実だと言われたとしても「ちょっと太安万侶さんここんとこ家にあるのとけっこう違ってまっせ、それほんまなん」と偉い人から突っ込みが入るかもしれません。
目に見える実在する人物が介在して書かれたものだとすれば「いやいやそれって間違いないの?」と疑いたくなりますが、神がかった能力の持ち主でその存在すらわからない何者かがこれを伝えそれを太安万侶が聞き書きしたとなると「これが真実だ」という方も言われる方も納得しやすいと思います。ですから稗田阿礼なるものは実在してはならないのです。
ものすごく過激なことを書いておりますが、私たちが古事記を俯瞰して読むことが出来るのに対し当時の人たちはその文章を読み解き理解し納得しなければならなかったのです。立場を変えると古事記の内容を納得させなければならなかったのです。
ですから稗田阿礼(仮名)として藤原不比等の名は永久に古事記の中には出てこないということになります。
メッチャ長い文章になってしまいましたお付き合いいただきありがとうございました。
ただ多くの方が舎人で稗田阿礼という類まれな能力の持ち主がいて古事記の編纂の手伝いをしたと理解されていると思いますが、上に書いてあることだけでなくほかの部分でも舎人の稗田阿礼では説明しにくい表現があったりしますので、あえてページをさいて説明させていただきました。
ではこの「稗田阿礼とは誰?」を閉じたいと思います。